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クラブ2011年12月19日

宮本恒靖選手、引退会見でのコメント・質疑応答全文掲載

本日(12月19日)、神戸市内にて行われました、宮本恒靖選手引退記者会見の内容をお伝えいたします。

■(株)クリムゾンフットボールクラブ 代表取締役社長 叶屋宏一:
これまでクラブとして中堅、若手のレベルアップが大きな課題となって行く中で、09年、宮本選手をザルツブルクから獲得しました。彼の日本代表としての姿、W杯の経験、ガンバ大阪での優勝経験、海外での選手経験、と大きな経験と実力を持った選手を獲得できたということで非常に期待していました。
実際我々も、選手も、多くの物を学び取る事ができ、クラブとしても着実に成長発展して来たと思っています。今年はそういう意味でクラブとしては最高順位の9位を達成できたのもその大きな要因の1つだと思っています。彼が09年に加入してくれて、3年契約の今年が最終年度となっていまして、クラブとしては引き続きクラブの発展成長に、クラブの一員として関わってほしい、必要な存在だと思い、話し合いを重ねて参りましたが、今回本人から、残念ながら、退団したいという意向を受けました。我々はそれを受け入れて彼の神戸での3年間の功績をたたえるとともに、彼の次なるチャレンジをバックアップさせていただきたいという思いから、今回こういう場を用意させていただきました。改めましてお集まりいただきましてありがとうございました。

■宮本恒靖選手:
みなさん、今日はお忙しい中お集りいただき本当にありがとうございます。私、宮本恒靖は、2011年をもって現役を引退する事を決意しました。ガンバ大阪、レッドブル・ザルツブルク、ヴィッセル神戸、そして日本代表として、この17年間はたくさんの人に支えられながら、本当に充実した日々を過ごす事が出来ました。本当に感謝しています。ありがとうございました。今後はヨーロッパにおいて、FIFAマスターのコースへいくこと、更にヨーロッパにおいて指導者ライセンス取得のための準備、活動をしていきたいと思っています。改めてみなさんこれまで、ありがとうございました。

■質疑応答:
-悩み抜いた末の決断と思いますが、引退の決断に至った理由、経緯を教えてください。
35才までプレーをする、というのは2002年の日韓W杯が終わった時に自分が抱いた次のステップへのイメージでした。それが神戸との3年契約を終えるタイミングだったので、それも理由の1つです。また、去年途中から試合に出る機会が減っていって、いろいろと自分の置かれている状況、将来を考えていくなかで、ピッチの中でこなせる役割というのは、もうそう多くはないのかなと思いました。それよりはピッチの外で、自分がこれまで経験して来たものや、これから習得していけるものでサッカー界に貢献していけることの方がこれから多くなっていくのではないかと思ったので、現役を退こうと思いました。

-FIFAマスターを目指されるという事ですが、その先に、どういうことを目指していらっしゃるのでしょうか? 欧州の指導者なのかJリーグに戻りたいと考えていらっしゃるのか。また今年で3年契約が切れる中で他のクラブからの獲得の話もあったと思うのですが、それよりも引退を決断された理由は?
後の質問から答えると、神戸の方からあり難いお話を戴いた中で、いろいろ考えていく中で、もう少しプレーするのも1つかなと思った時期もあったし、心が揺れている時期もあったんですが、12月3日に今季のJリーグの最終戦、仙台戦があったのですが、そこでプレーする機会を得たということが大きかったと思います。そこでもしプレーしないままシーズンを終えていたら、何か自分の中で、やり残したような気持ちを持ったまま終わる事になったのかもしれないが、あの試合に出た事で自分の中で迷っていた気持ちも、背中を一押しされたような気持ちもあり、あの試合をする前には、「これが神戸での最後の試合になる、現役の最後になるな」というような覚悟を持って試合に臨みました。他のクラブからも少し興味があるという話を戴きましたが、先ほども話したように、自分が思う選手をやめるタイミングと、自分が新しく見つけた、挑戦したという興味の対象がみえたことで、現役を続けるより、新しい分野でやくほうがいいと思ったのでそちらを選びました。

FIFAマスターにいくと、それこそ忙しいので、そこにかかりきりになってしまうと思うので、それ以降にヨーロッパでライセンスを取得したいし、取得できた暁にはいろいろな選択肢をもって自分の道を選んでいきたいと思っています。やっぱり、日本に帰って来て、日本で仕事させてもらうにしてもいろんなタイミング、ご縁があると思いますので、そういうものが全てうまくいった時に選択をしたいなと思います。

-仙台戦のピッチに立った時の気持ち、終わった時の気持ちを教えてください。一言で言うのは難しいと思いますが、17年間のプロ生活において、思い出に残っている事を教えてください。
最後だなと思ってピッチに立った時は本当にサッカー場、というか、スタジアムって素晴らしいなと。本当にきれいな空間だと思いながらプレーしていました。残念ながら雨がすごくて、ピッチコンディションはおそらく、サッカー人生でも一番悪いくらいの状況でしたが(笑)、試合中はああ楽しいなと思いながらやっていましたし、これで終わるのは寂しいなという気持ちもありましたし、でも試合に負けてるから勝ちたいなとか、そういうことも考えていました。終わった時は負けてしまったのですが、一つ区切りがついたのかなという感覚をもっていました。

17年間は本当に一言で言い表すのが難しいのですが…ちょっと話長くなりますが、10才の時に、新聞で『日本、W杯の開催地に立候補』っていう記事を見た時に、父親と「うわあ、これでW杯が日本で見られる機会ができるね」っていう話をしたんですが、まさかそのピッチに自分が立って、プレーできるとは思っていなかったし、そういう意味では、自分がプロに入った時に、日本代表とししてプレーできるというような自信は正直なかったですが、それが現実になり、そういうところでプレーできたことが一番印象に残っていると…一言で言うならばそういうことになります。

-今回の決断にご家族からはどのようなねぎらいの言葉があったのか。17年間のサッカー人生において最も思いでに残っている試合と、理由を教えてください。
家族には11月終わりくらいに相談したのですが、いいんじゃないか、と。それは両親もそうですし、自分の家族、妻もそうです。子供たちに説明するのは難しかったけど、お父さんはサッカー選手じゃなくなるんだよと言いました。そう伝えたら、少し寂しそうな顔をしましたが、「これからもお父さんも頑張っていくので、一緒に家族として見守っていってほしい」という話はしました。一番印象に残っている試合は、02年W杯のロシア戦が自分のサッカーキャリアの中でもハイライトの1つだし、日本のW杯における初勝利に貢献できてすごく嬉しかった思い出があります。

-宮本選手を通して、サッカーを好きになった子供さんがたくさんいらっしゃいます。そういった方たちや宮本さんが常に大事に考えられてきた子供たちへ、メッセージをお願いします。
ファンの方には…特に02年の時にマスクをつけた僕の姿を観て、これ誰なんだ?ということでサッカーを知ったり、のめり込んだ人も多かったと思いますが、そのように自分がフィルターとなってサッカーに興味を持ってもらい、サッカーだけじゃなくて、Jリーグや日本代表や、サッカーを好きになってもらえたらいいなとやってきました。確かに、僕が貰ったファンの方からの手紙にもそういう言葉が書かれていましたし、それは一つ自分の役割としてできたかなと思います。そういったファンの方には、これは別にお別れではないので、これからも自分らしくやっていくところを見ていただきたいなと思います。また子供たちには、サッカーを楽しんでもらいたいし、サッカーにのめりこんでもらいたいと思います。ただ、サッカー以外にも大切なことというのはあると思います。勉強もそうだし、友だちと遊ぶ事もそうだし、お父さんやお母さんの話をしっかり聞く事もそうだし、自分がその時々、目の前にしていることに100%集中して生活していってもらいたいなと思います。それが自分の人生にも生きてくると思います。たくさんの可能性を持った子供たちにはたくさんの可能性を追究していってもらいたいと思っています。

-17年間、宮本選手の人生の中でこの時間はどういう時間でしたか?また、FIFAマスターですが、かなり大変そうですが、これからの人生の時間はどうなるであろう、と想像していますか?
17年間は短かったです。それは多分自分が走り続け、走り抜けて来たからそういう風に思えるのでしょうが、人生の約半分なので、長かったり、短かったり、いろんな嬉しい事悔しい事もありましたし、苦い敗戦、歓喜の瞬間もあったし、それらすべてが自分の糧になって自分を大きくしてくれたと思いますので、この17年間に対して悔いはないですし、100%毎日、グラウンドでできることをやってきたつもりです。それが終わる寂しさはもちろんありますが、たぶんそれは時間をかけて徐々に、気持ちも身体も、現役のプロ選手じゃないということを受け入れていくんじゃないかなという風に今は思っています。FIFAマスターを受けるということは、すごく難しい部分もあると思いますが、いま34才、もうすぐ35才になる一人の人間として、もう一度何か新しいことにチャレンジしたいという気持ちが強くて、困難なことは分かっていますが、それに挑戦する事で自分が更に自分自身を磨けるんじゃないかなと思っています。だから現役を終える寂しさはありますが、新しいことにチャレンジして行くんだ、トライしていくんだというポジティブな気持ちもあります。

-欧州でFIFAマスターを学び、将来は指導者を目指されるということですが、10年後、20年後、例えば、どんなクラブで、どんな監督になりたいのか。今の時点で将来像を描いていれば教えてもらえますか?
今までサッカー選手として、サッカー選手からみたサッカーしか見えてなかったと思いますが、FIFAマスターにいったり、他の立場に立った時にサッカーの違った部分って見えてくると思うんですね。それをもとに、指導者の道で、どちらかというとサッカーの現場に近い部分で、サッカーに携わっていきたいと思うのか。もう少し違った視点から、日本のサッカーの成長に貢献していきたいと思うのかは、もう少し時間が経たないと、ハッキリ言えないと思っています。もちろん、10年後20年後継続してサッカーに携わりたい、日本に於いてサッカーのステイタスが高まるように、サッカーのレベルがあがるように貢献していきたいと思っていますが、10年後、20年後にどういう立場からというのは現時点で言うのは難しいです。

-今、日本のステイタスをあげたいという言葉がありました。いま描かれている日本のサッカーへのビジョンがあれば教えてください。
今、たくさんの選手が海外でプレーをしていますし、若い選手がどんどん海外にいこうとしている今のトレンドもすごくいい傾向にあると思います。ゆくゆくは、アフリカのチームやオーストラリアのチームがヨーロッパに集合して、そこで国際試合をこなすように、日本の代表チームもヨーロッパで…例えば、ロンドンで、集まって試合をして、また各ヨーロッパに所属している選手は各国に帰り、日本の選手はまた日本に帰るというような、そういう時代がくるのが理想だと思うし、そういう時代がくれば、おそらくW杯でもいまのベスト16というのを超えて、もっと上にいけるんじゃないかと思います。

-宮本選手から見て今の日本サッカーで足りないと思うところ。また、今後、FIFAマスターとしてそういう役割を担って行く中でご自身がどういう役割を果たしていきたいかお伺いしたいのですが。
日本代表ということなら、ザッケローニ監督のもとでどんどん進化していっているし、どんどん若い選手が出て来て力をつけていると思います。この前のアウェイでの北朝鮮戦のような、アウェイでの厳しい戦いというのは、今は経験の浅い選手たちがそういう積む事でどんどんチーム力は上がって行くと思いますから、そういった厳しいアウェイでの試合をこなしていってもらいたいなと思います。それは個人だけではなくチーム力のアップにも繋がりますし、チームとしての結束力にも繋がると思います。自分がこなしていきたい役割については、自分自身を磨いていきたいというのがありますが、FIFAマスターには20数カ国から人が集まってきますから、そこでの人の繋がりも出来ると思うんですね。それは将来的に、日本のサッカーの発展にも繋がると思っているのでそういった人脈づくりも出来ればいいなと思います。

-最後の現役時代3年間を神戸でプレーされましたが、この3年間での思い出と、神戸サポーターの方にメッセージをいただければと思います。
願わくは3年間フルで出て、神戸でキャリアを終えたかったのですがそうはいきませんでした。でも、そうやって試合に出て来た自分が、そういう立場に置かれた時に何を思うか、という心理状態を身を以て知った事は、今後自分が指導者としてやっていく上でも活かされるものだったと思っています。神戸に来た時はまだまだプロ意識というか、練習のレベルにしてもそうですが、少し首をかしげるところもありましたが、ここ最近は練習からもレベルはあがっていると思うし、今年クラブ最高順位の9位になったことで、クラブ、個人にも自信が芽生えてきていると思うんですよね。来年新戦力も増えると聞いていますし、今ある神戸のベースとそうした新戦力の人たちがもたらす質の部分がうまくあわされば、更にいいチームになっていくんじゃないかと思います。神戸のファンの方にはなかなか、プレーをする姿を見てもらえなかったのは残念だったのですが、どちらかというとガンバ色の強かった僕を受けいれてくれて、応援してくれたことに本当に感謝しています。

-ポジションとしてはDFとして決して体格的には恵まれていた訳ではない中でこれだけトップレベルでキャリアを積まれて来た。自身のプレーにおけるこだわり、意識してやってきたことは?
ピッチ上での戦いだけではなくて、事前の情報収集だったり、ピッチ外で起こっていること…例えば、相手監督の指示とか、選手同士の情報の伝達のしあいなど、細かな情報も自分にインプットしながら、どうすれば優位にたてるか、プレーの予測がつきやすいか、ということを常に考えていたと思います。もしも自分が195センチとか、本当に大きな選手ならたぶんそこまで考えずにプレーしていたのかもしれませんが、常に考えて来たことで17年間プレーしてこれたのかなと思います。

-田嶋副会長から協会としてのサポートと言う話がありました。協会として、いち個人に対してのサポートしては異例と思いますが、それに対してどういうお気持ちですか。
田嶋副会長のコメントは非常にありがたく、光栄に思います。田嶋さんと初めてお会いしたのは1993年になります。当時のU-17の世界選手権の準備期間で、合宿をしているところに来られた時に初めて話しをしました。それから代表チームで活動するたびに、いろいろ気にかけていただいて、現役後、こういう道に進む時にもバックアップしていただけることで、本当に心強く思います。具体的にどういうサポートをしてもらえるかはこれからのことになります。協会としてもいろんなノウハウ、コネクションがあるので、そういったものを活用できるように協力していきたいというお話はいただいているので、それは本当に嬉しく思っています。

-FIFAマスターのシステムについて宮本選手が理解されて、そこにいきたいと思われた時期はいつで、きっかけはあったのでしょうか?
初めて知ったのは11月の頭くらいです。自分としては常に思っていたのは、現役を辞めた時にもう一度勉強したいと思っていました。同志社出身なので同志社の大学院で勉強する事も探りましたし、神戸の大学に問い合わせたこともあります。ただ、サッカーとはなかなかリンクしないなということを思っていた時に、自分がやりたいサッカーの部分とスポーツマネジメントの部分でフィットするな、マッチするなと思ったので挑戦したいと思いました。(日本にとどまらずに、世界で、と思った理由はありますか?)それは多分オーストリアで2年間プレーしたことが大きかったと思います。ヨーロッパにいると国が近い事もあって、本当にそこでの動きが本当に身近に感じられる状況に身を置くと、ここが本場なのかなということを感じました。日本にいてももちろんできることはあるのですが、そういう違った環境に身を置く事で自分が鍛えられる事もあるだろうし、もう一度、ヨーロッパにいって芸術や文化を知ることによって、もう一度日本に帰ってきた時に持って帰ってこれるものがあると思っています。

-FIFAマスターについて来年9月からキャリアを始めるという事ですが、年明けから準備はヨーロッパでされるのでしょうか。どういう準備プランをもっていますか?
準備をするのは日本にいてもできますし、すぐにヨーロッパにいくわけではないです。コース自体は9月から始まりますのでその前に行くと思いますが、準備に関しては日本でやることになると思います。

-17年間のプロ生活の中で最も凄い選手だなと思った選手は?ライバルという存在がいたのであれば教えてください。
凄い選手はたくさんいますからね。昔の話でいえば、ガンバでのチームメイトだったエムボマは彼は日本人の感覚にない、アフリカ特有の発想でプレーしていましたし、01年に会ったイタリア代表のトッティ、00年のシドニーで闘ったロナウジーニョ、04、05年のジェラードの速さであるとか、05、06年のカカのプレーなど本当にたくさんいますね。そういうこの選手のここがすごい、ということは若い選手には伝えています。そういうものは伝えられる立場にあったので出来るだけ還元してきたつもりでいます。ライバルは…同年代の選手は気になる存在でしたし、この間、残念な事に亡くなってしまった松田直樹や、森岡隆三という選手の存在は自分自身、刺激を受けましたし、彼らに負けないように頑張らなければいけないなと思っていました。

-松田直樹選手ですが、彼が亡くなられたことで、宮本選手の今後のサッカー人生を考える上で何か影響はありましたか? 当時の心情ということでもいいのですが。
横浜F・マリノスから松本山雅にいくという話を聞いた時にすごく難しい選択だっただろうなと思いながら、それ以降の試合の記録なども追いかけていましたし、そこでどんなプレーをしているのか見ていました。本当にそれが志半ばになってしまって…自分がJFLでプレーする事があったらどうなんだろうということも、もちろん考えたのですが。自分はマツほど気持ちを前面に出すようなプレースタイルじゃないし、自分がああいう立場になったときにどうかということはもちろん想像はしました。それは難しいだろうなとも思いましたし…そうやって、プレーする機会がある立場にある訳だから頑張ってプレーしたいなということはその時点では思っていました。

-数多くの指導者の元でサッカーをされて来たと思いますが、印象に残っている指導者はいらっしゃいますか?
中学時代にお世話になった川本先生には、自分がリーダーとして、初めてキャプテンを任された監督なのですが、どうふるまうか、どうすべきかということを常に考えさせてもらったと思っています。またガンバユースの時にお世話になった上野山さんにはサッカー選手としての基盤を作っていただいたと思っています。プロになってからは、西野さんには自分がある程度持っていたサッカー感を更に攻撃的にしてもらったと思っていますし、トルシエにはこういうチーム作りがあるのかと気づかされたし、日本の若い選手の目線を高くしてくれた人だったと思います。ジーコは日本代表のキャプテンを任された、信頼してもらった監督いうことで印象に残っています。

-17年間たくさんの方が応援された方と思いますが、ファンの方へメッセージをいただけますか?
日本のスタジアムに訪れるといろんな年齢の方がいますし、男女、子供、たくさんの人がいます。そういう方たち、サポーターの方たちの存在があっての、日本のスタジアムの雰囲気の良さだと思うので、今後もぜひその良さは続けていってもらいたいと思います。いろんなスタジアムにいって、いろんな声援をいただいたのでそういう方々には、本当にお礼を言いたいと思います。これからもぜひスタジアムに足を運んでいただきたいと思います。

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