覆面記者の目

天皇杯 3回戦 vs.甲府 JITス(7/16 19:00)
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  • 2
  • 0前半0
    1後半1
    1延前0
    0延後0
  • 1
  • 甲府
  • 岩波 拓也(90'+7)
    エリキ(94')
  • 得点者
  • (58')内藤 大和

121分。激しい雨の中、ファイナルホイッスルが吹かれた瞬間、両チームの選手が見せた表情は対照的だった。甲府の選手たちの多くは膝から崩れ落ち、敗戦の悔しさを全身で表現していたのに対し、ヴィッセルの選手たちは安堵の表情を浮かべていた。詳細は後述するが、甲府の選手にとっては「勝てる試合」だったという思いが強かったのだろう。後半アディショナルタイムまでリードを保っていたのは甲府であり、退場者が出た後もヴィッセルの猛攻を凌ぎ続けていたことは事実だ。


 以前筆者は天皇杯について、下位カテゴリーの選手には野心があると書いたことがある。選手にとって上位カテゴリーのチームとの試合は、自らの実力をアピールする絶好の機会であるためだ。恐らく甲府の選手たちにもそうした気持ちはあったと思う。だからこそ彼らにとって今のヴィッセルは「最高の獲物」だったはずだ。昨季の「2冠王者」であり、今季もJ1リーグ優勝争いを繰り広げているヴィッセルを相手に勝利を挙げることができれば、いやがうえにも、甲府への注目度は増す。決して長いとは言えない現役生活の中で、自らの地位を上げていくのがプロサッカー選手の生き方であるとすれば、甲府の選手にとってこの日の試合が「絶対に勝ちたい試合」だったことは間違いないだろう。

 これに対してヴィッセルの選手には「絶対に勝たなければならない理由」があった。1つはディフェンディングチャンピオンとしての意地だ。この試合で殊勲のゴールを決めた岩波拓也は「去年優勝しているだけに、3回戦で負けられないという気持ちは全員にありました」と、試合後にコメントしている。こうした「意地」は、勝ち続けたチームにしか芽生えない。「立場が人を育てる」と言われるが、これはサッカーチームも同じことだ。「トップに立つことでしか理解できない感覚」というものは、確実に存在する。多くの指導者が「勝者のメンタリティ」という言葉を使い、それをチームに浸透させようと奮闘する。しかしほとんどのケースで、それは失敗に終わっている。優勝経験を持つ選手を獲得するなどして、チームの意識を変革しようと試みるのだが、やはりそれは「耳学問」に過ぎないためだ。結局は自分たちで勝利を積み重ねるという「実績」でしか「勝者のメンタリティ」は身につかない。
 こう書いてしまうとヒエラルキーは不動であるように思われるかもしれない。しかしそうではないことを、ここ数年間のヴィッセルが証明している。多くのクラブが挫折した中、なぜヴィッセルはその壁を突破することができたのか。その答えは「継続」だ。多くのクラブが改革にチャレンジするが、結果が出ない中で、やがてその動きは終息していく。しかしヴィッセルは、それをやり続けた。世界レベルで「勝利を知る選手」を獲得し続け、チーム内の基準を高めることで、クラブ全体の意識を引き上げた。ヴィッセルというクラブの特徴でもある「諦めの悪さ」こそが、改革を成し遂げた最大の理由であることは間違いないだろう。そう考えれば、かつてのヴィッセルを知る岩波の口から「意地」を思わせる言葉が発せられたという事実は、実に興味深い。
 こうした改革が進んだ結果、もう1つの「負けられない理由」も生まれた。これについても岩波が試合後にコメントしている。岩波は自らを含むこの日戦ったメンバーの多くが「リーグ戦で十分な出場機会を得られていない」ことを認めた上で、ここで勝てば自分をアピールする次の機会を得ることができるという気持ちを持っていたことを明かした。換言すれば、勝たなければ力をアピールする機会が減ってしまうという恐怖心を持って戦っていたということだ。これこそが「チーム内の競争意識」であり、チーム強化の原動力ともいうべきものだ。ヴィッセルアカデミー出身にして、五輪代表経験もある岩波ほどの実力者であっても、決して出場機会は保証されていないという事実は、今のヴィッセルの強さと厳しさを示している。

 とはいえ冒頭でも記したように、この試合においてヴィッセルは苦戦を強いられた。試合後の会見の席上、吉田孝行監督は開口一番「本当に苦しいゲームでした」と試合を振り返った。そして前半は内容も悪く、やりたいことができていなかったと語った。この事実は、まだヴィッセルには、レギュラー陣とそれ以外の選手との間に力の差があるという事実を示している。ここで誤解してほしくないのは、ここでいう「力」とは個人レベルのボールスキルのことではないということだ。ボールスキルについて言えば、今のヴィッセルに所属している選手は一様に高いものを持っている。かつて日本のサッカー界が金科玉条のごとく大事にしていた「止める・蹴る」といった部分について言うならば、チーム内に差はほぼ見られない。
 では「力」とは何か?それがこの試合におけるテーマでもあるが、一言で言うならば「個人の力をチームとして集積する力」ということになるのかもしれない。スティーブ・ジョブズはスピーチの中で「Connect the dots.(点と点を結べ)」と語ったが、個人の力を有機的につなげることができるか否かが、サッカーにおいても活躍するためのカギと言える。これを念頭に置いて、この試合を振り返ってみる。

 試合前から吉田監督は大幅なターンオーバーを示唆していた。次戦までは中3日、相手が下位カテゴリー(J2)所属のチームという状況を受けての判断だろう。スターティングメンバーは以下の通りだった。GKは新井章太。最終ラインは右から鍬先祐弥、岩波、本多勇喜、カエターノ。中盤はアンカーに山内翔、インサイドハーフには井出遥也とグスタボ クリスマンの3枚。前線は右から松田陸、小松蓮、汰木康也という並びだった。


 最大の注目は前線中央に入った小松だった。2週間前に加入が発表された小松は高さと強さを併せ持つ選手だ。前所属の秋田では2トップの一角としてプレーし、ここまでJ2リーグの得点ランキングトップ(10得点)に立つ活躍を見せてきた。自身初となるJ1への挑戦ではあるが、そのポテンシャルの高さゆえに大きな期待を背負っている。
 その小松だが、この試合では延長を含む120分フル出場を果たしたが、最後までシュートを放つことはできなかった。J2リーグでの対戦経験がある甲府の選手たちが小松のプレースタイルを把握した上で守っていたことも、その一因だったのかもしれない。しかしその最も大きな理由が連携不足にあることは明らかだった。ピッチ上の局面単位ではヴィッセルの選手が勝利する場面が多く、結果としてヴィッセルがボールを握る時間は長かったのだが、それを小松まで届けるという点において、ミスが多かったように思う。これは単に意思疎通の問題であり、時間が解決する部分も多いとは思う。
 この日の試合を見る限り、小松は前線で構えるタイプではないように思った。甲府が中央を固めていたことも影響しているとは思うが、ペナルティエリアの外に出て、ボールを受けることのできる位置を探しながらプレーしているように見えた。ひょっとするとボールタッチを増やすことでリズムを作ろうと考えていたのかもしれない。いずれにしても小松がペナルティエリアの外でも仕事ができる選手であることはうかがえた。それを強く感じたのが16分のシーンだった。甲府陣内でボールを奪った汰木からのパスを、小松がピッチ中央で受けた場面だ。小松は当初中央を駆け上がっていったのだが、小松の前には相手選手2名が立ち塞がった。とはいえ真ん中にスペースはあったため、強引に仕掛けることもできたとは思うが、ペナルティアーク手前で小松はスピードを落とした。そして左に流れたのだが、ここで右サイドを上がってきた松田を認識していた。そして身体を捻り、柔らかいタッチで松田の走路上に浮き球を送った。結果的に得点とはならなかったが、間に入っていた相手選手の頭を超える見事なパスだった。そして何よりもボールを動かしながら左に流れた瞬間、逆サイドの状況を見ることができていた点は高く評価したい。この場面で小松が見せた動きからすると、逆サイドは視界の端で僅かにとらえられる程度だったとは思うが、そこで正確にスペースを見つけていた。これはパスの球質と併せて、小松の能力の高さを感じさせたプレーだった。
 今後小松が身につけるべきは、ヴィッセルのロングボールの着弾点を理解することだろう。今のヴィッセルはロングボールを多用しているが、これは単に戦場を移動させるだけのボールではないことが多い。状況に応じて着弾点を変えているが、これらはその後の攻撃につなげるための動きから逆算されたものだ。これがあるため、ヴィッセルのサッカーは「キック&ラッシュ」に陥ることはない。これまでは大迫勇也や佐々木大樹がターゲット役を務めていたが、身長や身体の強さを考えれば、小松にもそうした動きが期待されている。であればこそ、局面に応じた着弾点を把握し、そこからの展開を作り出すプレーを習得してほしい。

 次に小松にボールを届ける側を見てみる。ここでは2人の選手の存在が大きく影響していたように思う。2人とは山内と井出だ。この日のメンバーを見た時、チームとしての位置を決定できるプレーができるのは、この2人だった。チームとしての位置とは、チーム全体の高さだ。チーム全体を高い位置に保つことができれば、相手を押し込むことができる。そしてこの形を作ることができたのは、山内と井出だったということだ。そのため前線の選手はペナルティエリアの中で勝負する形を作りやすい。当然セカンドボールの回収率も高くなり、攻撃に連続性が生まれる。この理想形をなかなか作り出すことができなかったことが、この試合を難しくした一因であったように思う。ここで誤解してほしくないのは、山内と井出のプレーが悪かったということではないということだ。両選手ともプレーには安定感があり、チームの勝利に貢献したことは間違いない。あくまでも「チーム全体を前に出す」という部分で踏み込み切れなかったというだけの話であり、これは高い要求をしているということだ。


 まずアンカーに入った山内だが、ボールを握った時の安定感はあった。センターバックが岩波―本多という新しいコンビだったこともあり、山内は彼らからボールを受けることができる位置を意識していたように見えた。そしてボールを握った際はピッチの中央に立ち、自らがチーム全体の「臍」であることを意識していたように見えた。甲府の守備は球際での激しさはあったものの、それほど前に出てくる形ではなかった。これはヴィッセルの選手のボールスキルが高かったためだろう。無理に前に出てボールを奪いに行った場合、それをかわされてしまうとピンチになるという意識が強かったのだろう。そのため山内にとってはボールを握りやすい環境ではあったように思う。問題はボールを握った後の動きだ。
 この試合で山内がボールを受けることが多かったエリアは、ディフェンシブサードとミドルサードの間付近だった。山内をマークしていたのは甲府の2枚のシャドーストライカーだったが、彼らもそれほど前に出てくることはなかった。正面には立つものの、5m程度の距離を取っていた。
 ここで山内に期待するのは、ボールを受けた時の動きの改善だ。山内はボールを受ける前、必ず首を振り、状況を確認することで、ボールを受けた時には、パスを通せる場所を把握できている。そのためボールを受けてから次に渡すまでの流れはスムーズだ。しかしこれがスムーズであるがゆえに、テンポに変化が生まれていない。山内に期待したいのは、ボールを持った直後の数歩で、相手を下げる動きだ。
 ここで思い出してほしいのが、かつてヴィッセルでアンカーを務めていたセルジ サンペールだ。サンペールはボールを受けた時、必ずと言っていいほど時間を作り出していた。F.C.バルセロナのアカデミー出身らしい卓越した技術を持っていたため、時には敢えて相手に寄りながらボールを受けていた。これによって相手を引き付けつつ、味方に時間とスペースを渡していたのだ。サンペールほど極端でなくとも、アンカーの位置でボールを持つ時間を増やすということは、チーム全体を前に出すための準備でもある。山内がボールを受けた時、相手に向けて数歩アクションを起こすだけで、相手はそれに合わせた動きを取らざるを得なくなる。これが相手の守備組織に綻びを作り出すための第一歩であり、チーム全体を前に向けるための準備でもある。
 山内はボールスキルも高く、プロとしての経験を積む中で球際の強さも身につけた。ヴィッセルアカデミー時代からそのセンスは高く評価されており、ピッチ全体を見渡すだけの視野の広さも持っている。しかしプロのスピードに慣れていく中で、球離れが早くなっているように感じる。時にはシンプルにボールを捌いていくプレーが求められることは事実だが、この日の試合のように相手が守備陣形を整え、構えて守る場合には、敢えてテンポを崩し、試合の流れを変えることも有効な策だ。

 そして井出だが、この試合ではプレーする位置が総じて低かったように思う。ボールが前に届いていなかったため、井出は自らがポジションを落とし、ボールを受けてチーム全体を動かそうとしたのだろう。井出の良さは味方同士をつなぐコネクターとなることのできる点にある。高いボールスキルだけではなく、試合の状況を正確に見抜く目と頭脳を持っている。そのため相手にとっての急所に入り込み、そこでボールをつなぐことができる。ヴィッセルには攻撃において際立った個性を発揮する選手が多いが、これをチーム足らしめてきたのが井出の存在だ。味方の特徴を正確に把握しているからこそ、その選手の選択を正確に予測することができる。だからこそ、井出の選択に間違いは少ない。こうした井出の能力は、前線において最大の威力を発揮する。井出にすれば、前線の選手を下げることなく、そこまでボールを届けるためにポジションを落としたのだろうが、これがヴィッセルの攻撃に連続性が生まれなかった理由だ。
 ボールスキルの高い選手は多いが、そこに頭脳を併せ持った選手となるとJリーグ全体を見渡しても、そう多くはない。そして、その1人が井出であることは間違いない。だからこそ井出には、常に前線に絡める位置でプレーをしてほしい。この試合では局面単位ではヴィッセルが確実に上回っていたため、これらの「現象」をつなぎ「勢い」に変換することのできる井出の存在は攻撃におけるカギでもあったのだ。

 吉田監督は野心的なメンバーでこの日の試合に臨んだ。これはリーグ戦で十分な出場機会を得ることができていない選手たちに「実戦経験」を積ませるという目的を含んでいたことは間違いないが、同時に選手たちに対する吉田監督からの「挑戦状」でもあったように思う。吉田監督が期待を込めて選手を送り出したことは事実だが、同時にベンチに山川哲史、広瀬陸斗、永戸勝也、井手口陽介、佐々木、エリキといった選手を置くことで、スターティングメンバーにプレッシャーを与えた。吉田監督とすれば、彼らは確実に勝利を挙げるための「保険」だったのだろうが、これに頼ることなく勝利をつかみ取ってほしいというメッセージでもあったように思う。選手層に厚みが生まれてきた今のヴィッセルにおいてポジションを獲得するためには、自らの力を証明しなければならない。この試合に起用された選手たちが全力でプレーしたことは間違いないが、甲府を崩しきれなかったことは事実だ。両チームの実力差を考えれば、やはり前半のうちに崩しきってほしかったという思いが残る。

 その意味で惜しかったのが、右ウイングで先発した松田陸だ。この試合で松田には複数回チャンスがあった。これが1つでも決まっていれば、試合の流れは全く異なるものになっていたのかもしれない。しかし松田がアグレッシブなプレーを続けたことは事実であり、ゴールに最も迫っていたのが松田だったことは間違いない。豊富な経験を持っている選手であるだけに、この試合では先制点が大きな意味を持つことを松田は理解していたはずだ。だからこそ、何度もゴール前に飛び込んでいった。結果は残らなかったが、その動き自体は悪くなかった。ヴィッセルでは貴重なサイドの職人であるだけに、次のチャンスには一発回答を見せてくれることを期待している。


 失点シーンは、文字通り一瞬の隙をつかれた形だった。左から前を狙ったスローインのボールが競り合いの中でこぼれたところで、甲府の選手が前に出てこれを奪った。そしてパスを受けた選手が右タッチライン際からヴィッセルの守備の裏に蹴った。これに走りこんだ内藤大和が、これを見事なボレーでゴールに叩きこんだ。裏へのケアも徹底しているヴィッセルとしてはいささか不用心な失点のように思われたが、これは交代直後という状況下だったことが災いした。カエターノに代わって山川を投入したことで、ヴィッセルの最終ラインは本多と岩波が1つ左にズレる格好でポジションを変えた。そこで山川は岩波と細かな立ち位置を確認していたため、この裏を狙ったボールが蹴られた瞬間は両者が並ぶような位置に立っていた。そのため2対1という数的優位を活かすことができず、単純なスピード勝負となってしまった。内藤のシュートは見事だったが、普通にポジションを取っていれば、岩波が内藤に競りかけ、山川はカバーにまわることができただろう。ヴィッセルがポジションを確認している隙を見逃さなかった甲府を褒めるべきなのだろうが、ヴィッセルは少々軽率だったようにも思える。山川と岩波のポジションが揃っていない中であれば、セーフティーな方向に投げ入れ、陣形を整える時間を作っても良かったのではないだろうか。

 失点直前に投入された佐々木は見事なプレーを見せ続けた。甲府に退場者が出たこともあるが、佐々木が前線でボールを収める役割を担ったことで、ヴィッセルの攻撃に連続性が生まれた。今や佐々木は、試合の中で確実に違いを見せることのできる選手となった。ここに突破力のあるエリキ、スペースでボールを拾うことのできる広瀬、サイドから高質なクロスを供給できる永戸が加わり、ヴィッセルの圧力は一気に高まった。ポストを5回叩くという不運はあったが、それでも確実に甲府を圧倒した状態のまま延長戦に突入した時点で勝負は決していたように思う。

 この試合で先発起用された選手にとっては、延長戦において「レギュラー」が試合を決した感があるだけに、素直に喜びきれない結果だったかもしれない。しかし個人単位で見た時には、彼らが見せたプレーは決して悪いものではなかった。繰り返しになるが、局面単位では確実にヴィッセルが上回っていたことは事実だ。冒頭でも書いたが、彼らがもう1つステージを上げるためには、点を線にする意識が求められる。自分のプレーをチームの中で活かすために必要なことを、日常のトレーニングの中で見つけてほしい。
 天皇杯の次の対戦相手は東洋大学に決まった。柏、新潟とJ1クラブを連続して撃破した東洋大には若さと勢いがある。しかし個別に見た時、ヴィッセルの選手が東洋大を上回っていることは間違いないだろう。次の試合でチャンスをつかんだ時には個々を集積し、1つの形にしてくれることを期待している。

 苦しみながらも中断明け初戦を無事に勝利したヴィッセルだが、次戦は中3日でのJ1リーグ戦だ。岡山とのアウェイゲームではあるが、多くのサポーターが現地に駆け付けるようだ。どのようなメンバーで試合に臨むかは不明だが、この試合で得た勢いを大事にして「桃太郎退治」を成し遂げてほしい。



今日の一番星
[岩波拓也選手]

この試合においては、この選手以外の選択肢はないだろう。試合終了間際に起死回生の同点ゴールを決めた岩波だ。岩波がゴールを決める直前に永戸がボールを受けた時、主審は時計を見ていた。既に提示されたアディショナルタイムは経過していたことを思えば、岩波がゴールを決めたのはラストプレーだったのだろう。この直前に甲府の選手が倒れて時間を使っていなければ、永戸がボールを受けた時点でファイナルホイッスルが吹かれていた可能性すらあった。文字通りギリギリで踏ん張った格好だ。このゴールシーンで岩波は相手選手の間に入り込んで、永戸からのボールを待っていた。ここで絶妙のアシストを見せたのが、ヴィッセルアカデミーの後輩である山川だった。山川は岩波に寄せようとしたヘナト アウグストをブロックした。この結果、岩波は手前に立った選手の上から正確にボールを頭で叩くことができた。このヴィッセルアカデミー出身コンビが生み出したゴールによって、ヴィッセルはギリギリのところで踏ん張った。かつては「ヴィッセルアカデミーの最高傑作」とも呼ばれ、若い時から世代の代表の中心的存在であり続けた岩波だが、昨季ヴィッセルに戻ってから、思ったような出場機会を得ることはできていない。しかし岩波の力が落ちたわけではない。出場した試合では、確実に実力をアピールし続けてきた。そして腐ることなく常に努力し続ける姿は、ヴィッセルアカデミー出身の選手たちにとってはお手本のような存在となっている。強いチームには、必ずこうしたベテラン選手の存在がある。この試合での劇的なゴールは、そんな岩波に対するサッカーの神様からの贈り物だったのかもしれない。とはいえ、まだ老け込むような歳ではない。未だ最終ラインから見せるキックの質は、誰よりも高い。この試合でも何本か見事なロングパスを通しており、最終ラインからの組み立てという部分において、岩波は力を発揮することができる。試合終了後、座り込んでしまったアウグストに駆け寄り、笑顔で手を差し伸べ、その健闘を称える優しさも岩波の魅力だ。劇的なゴールによって、文字通り「ヴィッセルの救世主」となった岩波の活躍に敬意を表し、さらなる躍動に期待を込めて文句なしの一番星。