覆面記者の目

J1 第26節 vs.清水 アイスタ(11/3 15:03)
  • HOME清水
  • AWAY神戸
  • 清水
  • 3
  • 0前半1
    3後半0
  • 1
  • 神戸
  • ヴァウド(60')
    エウシーニョ(75')
    金井 貢史(87')
  • 得点者
  • (33')山口 蛍

試合後に三浦淳寛監督は、後半の入り方に気持ちの緩みが出ていたと指摘した。
この指摘を「メンタル」という大きなテーマで捉えた場合、その意味は明確になる。
対戦相手の清水は、監督交代直後のリスタート初戦であった。どのチームにおいても共通だが、新しい監督を迎えた場合、選手の評価はリセットされる。時期的なことを勘案すると、完全なリセットは難しくとも、「指揮官の評価=選手に与えられるチャンスの数」であるだけに、選手たちがこの機会に強くアピールしようと試合に臨むのは当然のことだ。これついては、三浦監督も戦前から十分に認識していた。
 では三浦監督の言うように、後半の入り方が試合に影響したのだろうか。
これについて、筆者は明確な答えを持たない。現場で、そして至近距離で見ている指揮官の目は、我々スタンドの目よりも、多くの情報を得ているからだ。本項で筆者が言及するのは、飽くまでも「スタンドの目」であることを念頭に置いて、以下はお読みいただきたい。


 三浦監督は就任以来、「守備の意識」を強くチームに求めてきた。失点が多いチームを率いる指揮官としては、極めて当然のことともいえる。ここで考えるべきは「ヴィッセルにとっての守備とは何か?」ということだ。
 2年前からヴィッセルが追い求めてきたサッカーには、一つの理念があったように思う。それは「攻撃こそ最大の防御」という考え方だ。一つのボールを巡って戦うサッカーという競技において、攻撃と守備は、いわばゼロサムの関係にある。当たり前のことだが、一方が攻撃をしている間は、もう一方は守備をすることになる。野球のように、その機会が均等に与えられる競技ではない以上、攻撃の時間を増やすことは、そのまま守備の時間を減らすということでもある。そして守備時間を減らすということは、失点のリスクを減らすということだ。
 この単純すぎるほど単純な理屈を、ピッチ上で表現していたのがF.C.バルセロナであり、ヴィッセルはそれをベンチマークしてきた。そして、そのための投資を惜しまなかった。アンドレス イニエスタを筆頭とした「ボールを握る力の高い選手」を獲得し、攻撃力を高めてきた。これは、日本サッカーにおける初の挑戦でもあり、難しいチャレンジであることは判っていたと思われる。そのサッカーでアジアの頂点を目指すと宣言してから数か月後に、「バルサ化はできた?」などと笑いながら聞かれるような、簡単なものではないのだ。そしてこの難事に挑んでいるヴィッセルは、今年の元日に「天皇杯優勝」という一つの結果を出した。その後、酒井高徳が語ったように、これがゴールでないことは間違いないのだが、チーム、クラブにとって大きな自信となったはずだ。
 それが今、ヴィッセルはそのサッカーを続けるか否かという、大きなターニングポイントに差し掛かっているように思える。そして、この迷いこそが、この日の試合におけるヴィッセルの「機能不全」の正体であったように思えるのだ。


 ヴィッセルが志向するサッカーにおいて、「攻守の切り替え」が鍵を握っていることは明らかだ。ボールを奪われ、相手が攻撃に態勢を切り替えた刹那、ボールを奪うことができれば、相手のベクトルを逆手に取ることになる。それが「攻撃は守備の始まり、守備は攻撃の始まり」と言われる所以だ。三浦監督は特に、攻撃から守備への切り替えにスピードを求めてきたようだ。それ自体は理解できるのだが、どうも守備の意識が強くなりすぎ、攻撃へのベクトルが弱くなっているように感じられる。守備に強さを発揮することに選手たちの意識が向きすぎてしまい、ボールを奪った際の処理に問題が見られるように思う。
 例えば、この試合の後半、清水が前方への圧力を強める中で、ヴィッセルは守備の時間が増えた。そこではボールを奪った際、安直に大きく蹴り出しているように見えるシーンが散見された。これは、以前のヴィッセルではあまり見られなかったシーンでもある。自陣深い位置でボールを奪った際も、相手を引き付けて、味方が優位なポジションを取るための時間を作っていたためだ。そのため、自陣ゴール前でギリギリに見える駆け引きを続けながら、ボールの効果的な出口を探すことも少なくなかった。これは一見リスキーなようではあるが、巧く運ぶことができた時には、一気に局面をひっくり返すことができるだけの力を持った戦い方だ。そして、このボールの運び方こそが「ヴィッセルにおける攻守の切り替え」のポイントだった。自陣深い位置で、プレスをかけてくる相手をはがし続けるのは、大いなる勇気を必要とする。「虎穴に入らずんば・・・」という訳ではないが、リスクの横にこそ、ベネフィットは存在する。

 この試合で見せたように、自陣から長いボールを蹴ってリスク回避を図るのであれば、そのための布陣が必要となる。相手に寄せられる中で精度の高いロングボールを蹴ることができるならば別だが、そうでない場合には、そのボールを受けて、前に運ぶことのできる選手が複数必要になる。しかも、相手選手をスピードで上回らなければならない。そうした天性の能力に頼らないのも、ヴィッセルが志向してきたサッカーの特徴だったはずなのだ。

 「攻撃的なサッカーを続ける」という視座に立つならば、この試合で見せたサイドの使い方には課題があったように思う。この試合でヴィッセルが清水を押し込み切れなかった理由の一つは、サイドでの攻防における優位性を確立できなかったことにある。特に後半、清水が金子翔太と西澤健太の両ウイングの左右を入れ替えたことで、酒井の走路は封じられた。
 酒井と西大伍という、ヴィッセルの誇る両サイドバックは、攻撃的に動いたとき、その効果を最大限に発揮する。彼らを高い位置に上げるためには、いくつかの方法がある。一つには、トルステン フィンク前監督が好んだ3バックの前に、彼らをウイングバックとして配置する方法だ。この場合、スタート位置が高いため、最初から相手を押し込みやすい反面、その裏には大きなスペースが生まれやすい。ここを抑えるために、4バックとするのは、守備面を考えた場合、合理的な解決策ではある。
 では4バックにおいては、如何にしてサイドバックを高い位置に上げるかという点だが、この試合に限定して言うならばサイドハーフがポイントとなっていた。前半は清水のプレスが弱かったこともあるが、左サイドハーフがイニエスタだったことで、何度か酒井は高い位置を取ることができた。清水を率いる平岡宏章監督は、ハーフタイムに金子と西澤の左右を入れ替えた。その理由については「背後やギャップを突こうと思った」と語っていたが、これはヴィッセルのサイドハーフとの相性を考慮したものと思われる。前半は金子がイニエスタ、西澤が郷家友太という図式になっていたが、イニエスタにはフィジカルの強い西澤、郷家に対してはスピードのある金子とすることで、ここを押し下げ、サイドバックの上がりを止めたかったのではないだろうか。サイドバックの引き出し方としては、サイドハーフとサイドバックが、5レーンにおけるサイドとハーフスペースを使いながら、高い位置を取るという方法もあるが、その場合には綿密な連携が求められる。これは誰でもできるという類のものではない。


 ここでヴィッセルは、もう一つの基本に立ち戻る必要がるように思う。それはセルジ サンペールの配置だ。この試合では前の試合に続き山口蛍とのダブルボランチでの出場となったが、その力を発揮できたかといえば疑問が残る。ワンアンカーを務めることの多かったサンペールだが、その際には、サンペールの脇のスペースが相手の狙いどころとなっていたことは事実だ。それを防ぐための山口とのダブルボランチではあるのだが、これ自体は効果的だ。山口のカバー範囲の広さや危機察知能力、そしてスペースを埋める一瞬のスピードとコース取りは日本人選手では屈指だ。サンペールの守備の負担を減らす目的は十分に達している。問題は攻撃に移行した際の形だ。
 サンペールを起用するということは、サンペールを扇の要として、そこから両サイドバック、サイドハーフ、そしてフォワードがロンドを形成していなければならない。それによって、サンペールの長短を織り交ぜたパス能力が、最大限に活きることになる。スタートの布陣がどうあれ、攻撃のスイッチを入れる際、この形が形成されているように組み立てることこそが、ヴィッセルのサッカーだ。今は守備への意識が強すぎるため、この攻撃の形が形成されていないように見える。

 次に、ボールの動かし方について気になる点を挙げてみる。それは「スペースの使い方」ということになる。ヴィッセルのサッカーにおいて、ボールホルダーが意識すべきは「スペースと時間を味方に渡すこと」ということは、過去に本項で書いてきた通りだ。しかし、ここでは「スペース」という言葉の定義が問題となる。昨季終盤、ヴィッセルのサッカーにおいては「スペースは作り出すもの」だった。そうしてピッチ上に配置された相手を思い通りに動かし、自分たちのコントロール下に置くことで、ゲームを支配してきた。そのために必要なのが、「引き付けてリリース」という技術だった。ボールホルダーがプレスに来る相手を限界まで引き付けることで、ピッチ上にスペースを作り出し、さらに味方がそこで優位なポジションを獲得するための時間を作り出す。これこそが、ヴィッセルがゲームを最後尾からコントロールするための技術であり、自陣深くまで追い込まれていたとしても、決してピンチではなく、攻撃への布石となっていた。
 しかしここ数試合、このスペースを作り出す動きが少ないように思う。スペースを使ってボールを動かしているように見えるのだが、そのスペースは自らが作り出したものではなく、試合の流れの中で生まれたものだ。意図的に作り出したものではないため、そのスペースは相手にも認識されている。そのため、スペースに選手が動いても、そこは相手にとっても「塞ぐべき場所」であるため、意外性はない。結果として、相手とのイーブンな争いの連続の中でボールが動いているため、主導権を握りきるところまで至っていないように思える。


 また攻撃のユニットについても、一考の余地があるように思う。ポイントはドウグラスの使い方だ。これは今に始まった問題ではなく、今季を貫く問題でもある。これまでの実績を見る限り、ドウグラスの能力は本物だ。しかし、ヴィッセルの中でそれを活かしきれているかと言えば、まだそこには至っていない。以前にも書いたことがあるが、筆者はドウグラスの適性は、セカンドトップとした際に発揮されるように思う。高さと巧さがあるため、どうしてもターゲットの役割を負わされがちではあるが、その実は前のスペースを活かして勝負する「万能型」だと思っている。
 この試合でヴィッセルが見せたような、サイドからのクロスを中心とした攻め方ではなく、ドウグラスの前にスペースを作り出すことをチーム全体で共有しながら戦ってみるのも、一つの方法であるように思われる。
 
 ここまで主に攻撃面について書いてきたが、やはりヴィッセルが取り組んできたサッカーは、誰にでもできるというものではない。それが判っているからこそ、ここまでイニエスタを筆頭に、「非凡な」選手たちを集めてきた。そして「特別な」サッカーに挑戦してきた。この挑戦は、日本サッカーの歴史を変えるかもしれない、大きな取り組みだと筆者は思っている。だからこそ、これまで追求してきたサッカーを失うことなく、突き詰めてほしい。その過程で修正すべき点はあるが、根源にかかわる部分=攻撃こそ最大の防御という点は、守り抜いてほしいと思う。

 今、三浦監督は試行錯誤の真っただ中にいるように見える。戦い方を含め、選手の起用法など、様々な点で最適解を探し続けているのではないだろうか。コロナウイルスの影響により、変則開催となっている今季、シーズン途中での監督就任という、ベテラン監督でも難しい局面で、指揮官に就任するには大きな決断を必要としたことだろう。こうした火中の栗を拾う点は、2006年、クラブ初のJ2降格に際し、いち早くヴィッセルへの残留を発表し、ワールドカップという自らの夢を、ヴィッセルのJ1復帰に置き換えた「アツ」らしいといえる。今は苦しくとも「アツ」ならば、この局面を乗り越えてくれるものと、多くのヴィッセルサポーターが期待していることと思う。もちろん筆者もその一人だ。

 昨日、Viber公開トークで配信した速報版にも書いたことだが、今のヴィッセルにとって目標とすべき大会がAFCアジアチャンピオンズリーグ(以下ACL)であることは間違いない。アジアの頂点を狙うヴィッセルにとっては、ここまでに最適解を見つけることこそが、今、戦う最大の意味でもある。
 次節は中4日で迎えるアウェイ4連戦の3戦目、横浜FCとの対戦だ。実績あるベテランと若手のコンビネーションが上手くいき、久しぶりのJ1の舞台で健闘を見せている。オーソドックスなサッカーではあるが、それだけに崩れない芯の強さのようなものを持つチームだ。こうしたチームを相手に、ヴィッセルがどのような戦いを見せるのか。
 「非凡な選手たちには、特別な戦い方がよく似合う」。試合後にそんなセリフを口にできることを楽しみにしている。