覆面記者の目

J1 第25節 vs.C大阪 ノエスタ(9/16 19:03)
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  • 神戸
  • 0
  • 0前半0
    0後半1
  • 1
  • C大阪
  • 得点者
  • (62')柿谷 曜一朗


「拍子抜け」。
これが、この試合を観た多くの人の感想ではないだろうか。筆者は試合中から、過去のある試合を思い出していた。
 2008年のJ1リーグ第28節において、京都を相手にヴィッセルは4-1と快勝している。この試合では、2-1で迎えた68分にヴィッセルは退場者を出した。そしてそこからの20分間で、一人少ないながらも2点を追加したのだ。試合後の会見で、当時ヴィッセルを率いていた松田浩監督は「やることがはっきりしたという意味では、一人少なくなったことが、逆に幸いした」と語った。これに対し、記者の中から「最初から10人の方が良かったということですか?」という珍問が飛び出し、松田監督が笑いながら「そりゃ11人の方がいいですよ」と答えたことで、会見場は笑いに包まれた。筆者にとってはこの会見とともに、印象深い試合ではあるのだが、C大阪との試合は、まさにこの2008年の試合と同質だった。唯一違うのは、勝者がヴィッセルではなかったということだ。

 試合後、C大阪を率いるロティーナ監督は「退場者が出るまでも、神戸がボールを支配していた。退場者が出てからは、より神戸がボールを支配したが、やるべきことを明確にして、エラーを犯さないようにした」と語った。これがこの試合の全てだ。
 33分に都倉賢が退場し、戦い方を先鋭化させたC大阪に対し、ヴィッセルは「ボールは握れども」という状況に陥ってしまった。これに対してC大阪は殆どの時間を守備に費やしながらも、唯一のチャンスを決めた。60分以上もの間、一人多い状態で戦いながらも、攻め切れずに敗北を喫したという点において、今、ヴィッセルサポーターはストレスフルな状態であることと思う。

 この試合に限ったことではないのかもしれないが、ロティーナ監督は極めて現実的な指示を送っていた。都倉の退場に伴い、期待のルーキー西川潤をあっさりとベンチに下げ、守備に特徴のある片山瑛一を投入した。そしてそれまでの4-4-2から5-3-1へと変更したのだ。この時点で片山に下された指示は、「スペースを埋めろ」というものであったことを、片山は試合後に語っている。ボランチの木本恭生を最終ラインに下げ、その前にレアンドロ デサバトと奥埜博亮、そして片山を並べ、この3人に左右のスライドを徹底させることで、それまでの4-4の守備以上に強固な5-3のブロックを出現させたのだ。これによって、C大阪の選手は、やるべきことだけでなく、守るべきエリアもはっきりとした。あとはヴィッセルの攻撃に対して足を出し続けることへと、目的が変わったのだ。


 これに対してトルステン フィンク監督は、効果的な手を打てなかったと言わざるを得ない。サイドからのクロスを指示し、最後はトーマス フェルマーレンやダンクレーにも攻撃参加を促しただけだった。負傷者の影響もあり、攻撃の駒が足りているとは言えない。引いて守備に徹する相手を崩すというのは、どんな強豪チームにとっても難しいことだ。だからこそ、そこで監督は様々な手を打たなければならないのだが、この試合におけるフィンク監督は、余りに正攻法過ぎたのではないだろうか。確かにクロスを入れるというのは、最もオーソドックスな方法ではあるが、効果を発揮するのは、中央に受け手がいる場合に限られる。ドウグラスがいたのならば、それも理解できるのだが、この試合におけるヴィッセルの攻撃陣は藤本憲明と古橋亨梧。高さの部分で勝負できる選手でないと同時に、スペースを使うタイプの選手でもある。元々低い位置での守備を得意とするC大阪相手には、ミスマッチな感もあったが、5バックに変更された後は、それがより際立った。であれば、山口蛍やセルジ サンペールにミドルシュートを狙わせ、相手の守備を引き出すなどの工夫が欲しかったが、最後までそうした意図は感じられなかった。何度か山口やサンペール、そしてアンドレス イニエスタがミドルシュートを放つ場面はあったが、これらはすべて個人の判断によるものであり、チームとして徹底されていたようには見えなかった。経験豊富なフィンク監督だけに、引いた相手を崩すことの難しさは十分に理解しており、これといった特効薬がないことも解っていたのだろう。そう考えると、この試合はC大阪に得点を許した時点で、終わってしまったと言えるのかもしれない。

 試合後のロティーナ監督の発言からは、ヴィッセルのポゼッション技術がロティーナ監督の想定以上であったことがうかがえる。ボールを持たれることは想定していたとはいえ、中盤の4人と前線の2人で全くボールを奪うことができないまでとは予想していなかったのだろう。とはいえ、相手に攻め入られた時点で完全に撤退して4-4のブロックを形成し、幅をコンパクトに保ち、ボールに合わせてスライドすることで、ゴール前を守り抜く守備スタイルが浸透しているため、失点する雰囲気はなかった。
 ロティーナ監督にとって、最も脅威だったのは酒井高徳と西大伍の両ウイングバックの存在だったと思われる。この両者がサイドで幅を作ることで、その中にイニエスタや山口が入り込み、サンペールを底とした斜めのトライアングルが形成される。この形でC大阪の守備ブロックの中に入り込まれると、ブロックそのものが崩壊する危険性がある。だからこそ、都倉の退場後、4-4-1ではなく5-3-1にして、両サイドに蓋をすることを選んだのだろう。
 これを上回るには一つの方法があったように思う。それは中央を捨てて、古橋と藤本が5バックの両端のそばにポジションを取ることだ。ここでボールを受ける姿勢を見せることで、サイドと中央を切り離すことができれば、C大阪の5バックを1-3-1に分断することも、僅かながら可能性はあったように思う。古橋は自分のスペースが見つからない時点で、そうした動きを見せ、イニエスタとのパス交換の中で5バックの選手間を広げようとしていた。しかし藤本は、中央にステイする時間が長く、そこで裏を狙うことで、最終ラインと2列目を広げようとしていた。藤本の選択も間違いではない。しかしここにはC大阪にとって大きなポジティブファクターが存在する。GKのキム ジンヒョンだ。飛び出しのタイミング、セービングなど、恐らく現在のJリーグで最も安定感があるタイプのGKだが、この存在が最終ラインに無理な上下動をさせていない。そのため、藤本の駆け引きに釣り出される選手はいなかった。選択としては、古橋の方が現実的だったのかもしれない。

 結果論ではあるが、筆者がこの試合で見てみたかったのは小田裕太郎だった。背後にスペースを作らないC大阪の守備に対して、サイズやフィジカルで勝負できるのは、ドウグラスと田中順也が不在の中では小田だと考えているからだ。確かにまだ成長過程の選手であり、反転してのシュートは素直すぎるところもあるが、C大阪の堅い守備に対しては、ある程度以上のパワーが必要だったように思えてならない。

 古来、日本の戦において、鉄砲によって落城した城はない。1600年の伏見城攻めにおいては、3千にも満たない守備側に対して、4万を超える兵が攻めかかったが、大小の鉄砲を打ち続けた10日以上の間、城は十分に持ちこたえたという。最後に落城したのは、諸説あるが、火を放たれたことが原因だ。要は鉄砲は、相手の守備に対して小さなダメージは与えるが、根本から崩すものではなかったということだ。
 これをこの試合に置き換えれば、クロスという鉄砲を「国崩し」と呼ばれた大砲に変えるには、中で受ける人間が必要であり、そうした選手がチームにいない以上、C大阪の守備ブロックの中で、それを崩壊させる動きが必要だった。
 フィンク監督は試合後、リスクを冒した攻撃を仕掛けるべきだったと語っているが、それはまさにその通りだ。ではこの試合で、リスクを冒した攻撃とはなんだったのだろう。実はC大阪が柿谷一人を前に残した形を採用し、しかもその柿谷の位置もそれほど高いものではなく、多くの時間帯で自陣内に留まっていた以上、それ程リスキーな局面は生まれ得なかったように思う。残されていたのは「攻め切る」という戦い方だけだったのではないか。殆どの時間帯で、セカンドボールはヴィッセルが回収していた。何度かは相手のブロックが形成される前に、アタッキングサードまで入ることもできていた。ここで、ヴィッセルのサッカーは、そのまま攻め切るのではなく、一旦ステイして、周囲の連動した状態を作り出すスタイルを選択している。しかし「攻め切る」というのは、このスタイルを崩すことに他ならず、筆者はそれはやるべきではないと思っている。これはどのクラブにも共通していることだが、目の前の勝利以上に大切なことがある。ヴィッセルにとっては、「全体で連動して攻める」ということが、それに当たる。それを崩してしまっていたのが、昨季の連敗期だったことを忘れてはならない。


 非常に悔しい敗戦ではあったが、ヴィッセルの基本とするサッカーが揺らいでいるわけではないことは、今後の戦いに向けての縁(よすが)でもある。この部分を大事にしなければ、今後の巻き返しなどあり得ない。前記したように、ヴィッセルのポゼッション技術は、ロティーナ監督が想定した以上のレベルにあるのだ。
 勝敗の上での結果は出ていないが、ヴィッセルと対戦したチームのほぼ全てが「ヴィッセルは強い」という感想を抱いている。ボールを握りながら相手をロンドの中に閉じ込めていく戦い方は、練度を増しており、今やイニエスタ不在の中でも、それを実現することができるまでになっている。これこそが他チームにとって、ヴィッセルの最も厄介な部分である。過去、Jリーグに存在した「ポゼッション重視」のチームとは異なり、ボールを握ること自体は目的となっていないため、狙いどころを定められないのだ。一人多かったとはいえ、この試合でもそれは見られた。都倉の退場前も、C大阪はボールを奪う位置を定めることができていなかった。これを守ったまま、相手を崩すためには、やはり攻撃の幅を維持することに尽きる。

 C大阪は一人少なくなり、ロティーナが割り切った指示を送ったことで、やれることが限られた。それは選手にとって、選択肢が減ったことを意味するため、プレースピードを保つことができた。これに対してヴィッセルはボールを持てているため、複数の攻撃を試みていた。イニエスタはパスの方向や攻撃の方向を細かく変えることで崩そうとしていたが、それによって選択肢が増えたことで、プレースピードは遅くなってしまった。イニエスタに思考スピードに追い付いていけないのであれば、まずはヴィッセルの最大の武器の一つである酒井と西を活かしたサイドでの形を作ることに徹してみるのが、得策であったように思う。相手が幅を消してくるのであれば、思い切って中央を一旦捨てることで、相手の守備の向きを変えることができれば、次の展開が生まれる。
 今は中央に攻撃が寄りすぎているため、相手は引いて中央を固めるという方策で「ヴィッセル対策」となってしまっているのではないか。


 筆者も個人的に楽しみにしていた対戦ではあったが、都倉の愚行によって見どころの乏しいゲームとなってしまった。しかしここでたった一度のチャンスをものにして、勝ちきってしまうC大阪が、チームの完成度という点で一歩先んじていたことは認めなければならない。これこそが「強さ」ということなのかもしれない。試合前、山口は「勝利から遠ざかっている以上、チームの雰囲気がいいとは言えない」と、チーム全体にフラストレーションが溜まっていることを認めた。誰もが感じているとは思うが、力が備わっていないわけではない。様々な要因はあるが、俯瞰してみた時、これまでの試合において「自分たちで勝利を手放してきた」結果、今の状況に陥っている側面があることは否定できない。ホームでは、カップ戦を含めて既に12試合をこなしているが、勝利は僅かに2。いつものような声援がないスタジアムとはいえ、これではムードが上がり切らないのも無理はない。やはり勝ちきる強さを身につけないことには、目指すチーム像には辿り着けないだろう。


 精神的な部分に因を求めることは、個人的には最も嫌いなのだが、今回は敢えてそこにも言及したい。今のヴィッセルにおいて最も変化が期待されているのは、若い選手たちに他ならない。試合前、山口が語ったように、ヴィッセルの若い選手たちには、いささか飢餓感が欠けているように見える。今季の超過密日程の中で「出番は来る」と考えることは、現実的には間違えていないが、それはチームに熱を与えない。首位を独走している川崎Fを見た時、その熱の持つ意味は明らかになる。
 今季の川崎Fでは三苫薫に代表される若手選手が試合の中で結果を残し、小林悠や齋藤学といった実績のあるベテラン選手をベンチに追いやっている。そして自分が出番を失うと、次の出場機会に猛烈にアピールし、その座を奪い返そうとしている。この若手とベテランの争いが生み出す熱が、今の川崎Fの原動力となっている。
 これと比した時、ヴィッセルの若手選手からは、絶対に結果を残してレギュラーを奪い取る強い思いは感じられない。選手個々はそうした思いを持っているとは思うが、それを体現し、全体に波及させることがプロ選手には求められる。プロというのは、結果を残すことが「仕事」であり、その仕事をするための意思をスタンドまで伝えることこそが「パフォーマンス」なのだ。
 プロ野球界で「天才」と呼ばれた前田智徳は、「孤高の侍」と評されることが多かった。黙々と自分の打撃を追求する姿が、そう呼ばせたわけだが、忘れてはならないのは、若いころの前田は自分の打撃に納得いかなかった時、周囲の先輩が声をかけるのを躊躇う程、感情を出していたということだ。自分が納得できる打撃を追求する中で見せるその態度は、派手でなくとも周りに熱を伝える。
 ヴィッセルの若い選手たちは、能力が評価されているからこそ、ヴィッセルのユニフォームを着ている。それを自信として、その中でレギュラーを奪い取るという気持ちをもっと前面に出してほしい。それこそが、今のチームを覆っている停滞感を吹き飛ばす力となる。そして、その力がベテラン選手たちにもう一度パワーを与える。そうして勝利を積み重ねる中で得た笑顔こそが、本来のチームの明るさなのだ。